昭和44年7月31日 夜の御理解
大阪の森和子さんから手紙が参っておりました。えー、こちらの教会の繁盛、ごひれいの様子を、と同じにあちらのパンフレットが出ております。それを一緒に同封して来ております。その中に、手紙の中に、只今あの、妊娠のおかげを頂いております。初産の事でもありますから、今度は九州に帰ってお産のおかげを頂きたいという事をお願いしたところが、大阪で産むようにと親先生は仰った。
けれども、こちらには私が身よりも身内もございませんからっち言って申し上げたところが、先生が、私がついておるじゃないかと言われたと。それで、まあ大阪の方でおかげを頂くように致しました、といったような事が書いてある。私はそれを聞かせて頂いてから、本当に大した事を言われる先生だなと思いました。とても私共では言い〔はえきらん?〕。私がついておるじゃないかと。
ね、大胆というか、または良う言やあ、確信ですね。確信を持っての事ですけれども。やはり現在、まあ大変な色々な、今度は全世界宗教〔 〕大会か何かが京都であの、泉尾の〔みやけ〕先生の、そのそれで、あるそうですが。大した事ですよね、えー。けれども私は、私が付いておるじゃないかと。
しかもあの、本人は母親の側である九州へ帰ってお産をしようと言うておる。それに、大阪の方で産めと。身よりもないから、親戚もないから。私が付いとるじゃないかと。まあ、それで信者を納得させ、それで先生がああ仰って下さるからと安心させれるという事は大した事だ。
けれども、教祖様でもそんな事を仰ってないと思うんですね、実際は。だから、ある意味合いでは大した、確信であると同じに、大胆な事だとこう思います。仏教の中にも、やはり親鸞承認様のような、まあそれこそ地を低うしたと言うか、へりくだったと言うか。もう本当に、自分のような〔苦人?〕はまたとないと言うように、いわゆる我、くずの子の自覚に立っての宗教家もあったかと言うと、また同じ仏教の中にも、〔 〕さんのように、ね。
この日蓮が言う事に対してといったような、もう絶対のやはり、その断言をしてですね、あの、滝の口ですか、の〔け?〕の時なんかでも、やはりああいう奇跡をその呼んでおります訳ですけれども。ある、教団の中の、やっぱり日蓮さんのような感じがしますね、泉尾の先生は。私が付いとるじゃないかと、ね。まあそれは良い、悪いは別としましてです。そこまで言えれる一つの確信という物は大した事だなと、こう思います。
私共は、その確信を持っておっても、やはりそこは、まあ謙虚に。態度にも、または、言葉の表現にも、そう私が付いておるじゃないかというような事ではなくても、安心させれる道もあるのじゃないかというように思うんですけれども。もう、とにかく金光教でも、泉尾じゃなからなければ金光教じゃないと言ったような感があるんですよね、言われる事、なさっておられる事の中に。
まあ私共は多いに、まあその、あちらの先生の信心に一つのファイトを感じますね。だからそういう意味合いでは有り難いと思いますけれども。そげん、言われる信心に付いて行こうとは、もう私ならもう、さらさら思わないですね。えー、もう全然生き方が違う、と言うてならば、それが間違っておるというのではないということ。やっぱり、金光大神の手代わりとしてのお取次ぎをなさっておられるのですから、どうっちゃないけれども、けれども、やはりその、合楽なら合楽の場合を言うてもですね、様々な生き方がありますが。
今朝から頂きますように、桜の花のような信心の根性という物が、合楽には非常に強い。そこんところを自覚して、えー、その欠けておる所を自分で頂き、その欠けておる所に本気で取り組ませて頂くという精進が、まあ合楽ではなされておる訳ですから。泉尾の場合でも、あれだけのごひれいを頂いておられるのですから間違いではない、本当の事に違いはないのですけれどもね。
けれども、その一言を聞いてから、大した自信であり、確信であるなと。それもまた大胆な事ではあるなという風に、まあ何と言うて良いか分からんですけれども、その、和子さんに言われた一言でですね。私達なら、ならあんたの、九州の方の親先生も待っちゃろうし、お母さんも待っちゃろうから、九州へ帰らせて頂いてと、おそらくお取次ぎしたじゃろうと思うですけれども。九州には帰るなち、大阪で産めと言われた。
困ると言や、私が付いとるじゃないかというその、いわば日蓮的な断言して、その、おそらくおかげを受ける事でしょう、それだけの確信を持った先生のお取次ぎを頂いとる訳ですから。けども、金光教の中にも色々あるなと思います。ね、だから誰の真似、彼の真似という事はないけれども、まあある意味合い、大変な素晴らしい事ですけれど、やはり合楽には合楽の生き方って物がありますから。どうでもその生き方を学ばなければならん。
和子さんの信心の中に、合楽の生き方と、大阪の生き方が今、一緒になって非常にこう、信心の上で悩みを感じておるような事も書いてございましたが。なかなか難しいもんですね。どうぞ、安産のおかげを頂くように、またお祈りさせて頂くと同じにです。
えー、泉尾の先生の、いわば信心の、〔まあいわば?〕大した確信に対して、敬意を表し入れても、自分の、も、ああいう生き方になろうとは、まあ思われません。まあ、私が今日、手紙を読んでから感じました事と、色々な信心がお道の信心の中にも、やっぱりあるという事ですね、どうぞ。
末永信太郎 5月20日